社長ブログ “番外編 旅のハプニング特集”

写真:koizumifamily.problo.net

前回、”TSMC創始者-張忠謀/モリス・チャンの引退に思う”と題しまして、1990年代の半導体日本丸に乗っかった小職の回顧録的ブログを発信しましたところ、多くの特にシニアの方々から反響やエールを頂きました。半導体の栄枯盛衰を肌で味わった我々世代は特に感慨深く一つの時代が過ぎたことが否めません。

今回は皆様に少し笑って頂くために番外編としまして小職が世界中を飛び回った1900年台~2000年代に経験した旅の”ハプニング”を書き綴ってみました。

その1.  台湾大地震で九死に一生

1999年9月21日1時47分ごろ、台湾中部南投県でマグニチュード7.7の大地震が発生しました。死者約2400人、全壊約5万1千戸に上る大惨事でした。

写真:mogneto.org

その時、私と部下のA課長は震源地からすぐ近くの台中市のホテルに宿泊していました。当時、日本に帰化された周会長というドンファン(半導体関係者なら知っている人が多いと思います)から台中に後工程専門の会社/工場があるので是非、訪問して欲しいという依頼を受けて、その日、はじめて台中市を訪れました。
はじめて行った場所で大地震に遭遇するとは… 夜中の1時半過ぎですから既に寝静まっていたところに突然の揺れで飛び起きましたが歩ける様な状態ではありません。大きな音と共に什器が倒れるは壁の方々が剥がれ落ちてきました。バスルームはしっかりした大理石と思いきや大理石を薄くスライスして貼り付けてあることをその時はじめて知りました。どうしようもないのでベットで毛布に丸まっているとホテルの崩壊は間逃れ、助かったことを自覚しました。

ホテルは先方が取ってくれた台中でもトップクラスで、また右左も分からなかったのでその日は会食が終わってからホテルでおとなしくしていたことが九死に一生を得たかもしれません。安いホテル、或いは場末の飲み屋で夜な夜な飲んでいたら押しつぶされていたかもしれません。(笑)

7階の部屋の窓から下を眺めると多くの西欧人が毛布を持ちだし野宿をしようとしています。小生は地震大国日本で育ったことで、残るは余震で建物が崩壊することはないと、たかをくくり部屋で待機しました。(後の熊本地震で余震の方が大きかったのはびっくりでしたが…) 結構、大きな余震が30分おきぐらいに続き朝まで眠れず、さすがに走馬燈の如く過去の自分を振り返り感傷にしたっていました…

朝になり、さて…どうやって日本に帰る? まわりを探索していたA課長が親切なタクシードドライバーを捕まえ、困っている日本人を見て新竹まで乗せていってくれるとのこと!  ずたずたになった道路を右往左往しながら何とか隘路を通り新竹にたどり着いたのは午後でした。当然、通信網もズタズタで日本に連絡ができたのは新竹に着いた午後で、ようやく会社と家に無事であることを知らせました。

台湾大地震

後で分かった話ですが日本では朝から台湾地震の話しで持ちきり、NHKのニュースでは連絡の取れない日本人、NEC-XX人,富士通-XX人…と報道していたとのこと。

当時、小職のいた三重工場でも朝から大騒ぎで、昼近くになっても連絡が取れないことから部下のT課長は小生の自宅に電話し、家内に “お聞きになってるかと思いますが、立松部長は昨晩から台湾の震源地に近い台中に行かれていて、今だ連絡が取れない状況です…” と、元々、暗い声を更に暗いトーンで通知した時点から家内はパニック、(家内には台湾の出張は伝えていたが台中に行くことは伝えてなかった)親戚中に電話してファミリーまで巻き込んで大騒ぎ… 午後になり無事を知り一件落着…家内曰く、戦死を通告された旦那が突然、帰還したようだと冗談で…。

そんな大騒ぎも知らない小生は新竹サイエンスパークで知り合いを捕まえ(当時は既に200回近く出張していたので親切な人も多い)台北桃薗国際空港まで送ってもらい、空港は閉鎖されて無かったのでその日の夜遅い便で帰国しました。

その2.  名古屋空港での中華航空墜落事故現場

1994年4月26日、台北発名古屋行の中華航空140便が名古屋空港の滑走路近くに墜落しました。機体は大破、炎上し、乗員乗客264名が死亡、7名が重傷という大惨事となりました。

小職は当時、富士通三重工場(半導体の開発拠点)にいて、この次の日の4月27日にシンガポールエアラインでシンガポール,マレーシアの出張を予定していました。空港はこの事故で3日間閉鎖、かくして2日後の28日のフライトを取り名古屋空港に向かいました。空港はまだ騒然としていてようやく何とか開港にこぎ着けたと言う状況で報道陣,警察,自衛隊,関係者…が右往左往していました。バラバラになった機体や残骸は滑走路の脇にボタ山の如く高さ10mぐらいに積み上げられていました。

写真:hasicimosnov.cz

搭乗手続きは一瞬で終わりシンガポールエアラインの配慮でビジネスからファーストにアップグレードしてくれました。機内に乗り込み窓から外を見ると残骸のボタ山が…飛行機はおもむろに離陸の為に滑走路に…すると窓の外の目の前にボタ山が…しかも上からまだ煙が出ています。

自分で選んだ席ではなかったのですが窓際でしかも墜落機の残骸集積側(右側)、たまたま隣の席に居合わせたのはシンガポールエアラインのCAで、事故による機材のローテーションの問題でシンガポールまでこの飛行機で行きフライトの仕事をするとのこと。彼女曰く、”あの山の中にはまだ人間の手足や肉片があるのでしょうね…” と、何という冷静沈着なこと…女性は強い! 気の小さい小生はせっかくの美味しいファーストクラスの料理も酒も満喫はできませんでした。
右手の窓には悲惨な光景、左側には美形のCA…この何とも言い表しようの無い空間は一生、忘れがたいものとなりました。

その3.  あわや見知らぬ中国人と同部屋宿泊

2007年のある日の夕方、小職は北京空港から羽田に向かう中国国際航空の便に機上しました。2006年から数年間、北京のSuperPixと言うCMOSセンサの設計,製造のメーカーの役員を兼任でしていたことから毎月の役員会に出席した帰りでした。

ところが搭乗して1時間、2時間経っても離陸しません。ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが中国では遅延があっても、まずは乗客を機内に閉じ込めます。2時間半近く経過すると(ほんとなら成田に到着している)アナウンスでこの機体は問題があるので今日は飛び立てない、しかるに空港の近くにホテルを用意するのでそこに宿泊し、明日朝一番6時のフライトを手配するとのこと。

写真:blogs.yahoo.co.jp

大型バスで空港近くの寂れたホテル(どうもこんな場合に備えている斜陽なホテル)に到着、しかしそれ以降は全部、中国語の案内。なにやら部屋の説明をしているらしいけど小生にはサッパリ… 傍にいた親切な老夫婦が英語で説明してくれたので助かったのですが… それによれば部屋は2人/1部屋、食事は食堂のビッフェ、つまり小生のような独り者は誰か知らない人と相部屋になるとのこと、これはさすがに受け入れがたく、老夫婦に通訳をしてもらい一人部屋の交渉をしました。するとホテル側は300元(当時で4000円ぐらい)を払えばアレンジするとの話し。何とも咀嚼できない話ではあるけれど知らない中国人と一晩を過ごすリスクの代償!?と考えれば安いものだと考え何とか事なきを得ました。
これに限らず中国のサービス業の対応、あっと驚くことが多々ありますね。