14年目を迎えたTMリンク

TMリンクは去る8月の決算を通過し9月より創業13年、14年目を迎えました。
国税庁の発表によると日本の会社390万社のうち、設立1年で60%が倒産・廃業–生存率40%、設立5年–生存率15%、10年–生存率6%、20年–生存率0.3% とのことで指数関数的にどんどん生存確率が減っていく中、何とか存続してきました。

最近、このご時世か特に半導体系の人が多いのですが、転職、起業、現状&今後、悩みごと…等々の相談で訪ねてきて頂ける昔の戦友が多くなりました。
日本の経済環境、職に対する考え方、大手企業のBiz.Modelが様変わりしたこの10年は、特にシニアにさしかかった企業戦士の人達には時に強いアゲンストの風となっている事実は否めません。
あれよあれよという間にTMリンクを立ち上げて13年も経ってしまいましたが、設立当時を振り返り、起業の原点とコンセプトをまとめてみました。
特に40歳~50歳台の年代でいろいろ考えあぐねている方の少しでも参考になればと思います。

1.起業の動機

A. 富士通に長年勤め、このまま定年までいれば何の不自由も無いのは自明だったが50歳をちょうど過ぎ、まともに働ける最後の10年間ぐらいは失敗してもいいのでやりたい仕事をやろうと考えた。

B. 入社当時からDRAM設計部門に配属され、超過激な働き方(昨今のxx改革と真逆)を経験し、その後プロダクトエンジニアリング部を作り世界中の工場への技術移管を行い、最後の5年間は国際マーケティング部であらゆる半導体製品の企画やプロモーションを経験させて頂いたことから、そこそこのGeneralist的知識と世界中に人脈ができたことで、何かできるのでは? と言うおぼろげな感覚があった。

C. マーケティング部門で何か新しくてこれから伸びる商品を開発/製品化すべきと孤軍奮闘したが、当時のTopはことごとくこれらの芽を摘み取ったことから外に出てやるしか無いと思った。
⇒ex. 今では携帯電話に当たり前に付いている指紋センサやカメラ(CMOSセンサ)は、当時まだ開発されて間もないプロダクトだったが、開発側の部長であるDr.後藤さん(現TMリンク最高技術顧問)とタッグを組み、何とか携帯電話や車に採用してもらおうと東奔西走した….(文末コラム参照)

D. 2005年8月31日付けで退職願いを出したが、翌9月1日時点の在職社員は年金を実質的に減らされることになっていた。(各企業、年金積み立てに四苦八苦していた時代)

2.起業の準備

A. 半導体のGeneralistとか言えど所詮、技術屋…経営や財務のことはサッパリ、なので退職までの2年間ぐらいでこの系の本を買いあさり読みまくった。特に財務3諸表の理解、キャッシュフローの考え方等々は特に念入りに勉強した。20年間以上、株式投資をやっていたので起業のモノサシの当て方はおぼろげながら分かっていたのでこれは役にたった。

B. 起業してすぐはいわゆる物作り/物売りのインカムは難しいと読み、独立すると決断した直後から多くの懇意にしている企業の社長さんに “来年、富士通を退職して独立するつもりだけど、何か手伝えることがあればご用命を…” と耳打ちをしてまわった。これを聞いて皆さんは異口同音に開口一番、“やめておけ!” だったが、意志の固さを知ると “ウチのコンサルをしてくれる?” という人が多々…
下記は創業当時に行ったコンサルタントの名刺であるが、6社,7社となると体が持たずだんだん減らしてキャッシュポジションをつかみながら本来のビジネスに力を入れていった。

名刺コンサル名刺 (クリックで画像拡大)

C. よく0円企業とか人様からお金を借りて起業するパターンが見受けられるが、やはり自分のガバナンスを効かせるにはオーナー企業とすべきで、また資金繰りの面からも会社法人が一人前の “法の下の人” と認知される資本金1000万円以上とすることを設定~創業時自己資金で資本金1000万円でスタート(現在は2300万円)。運転資金も銀行やXX助成に頼らず、ひもじくもキャッシュフロー優先経営を貫くことを決意。(リーマンショック後はさすがに銀行から借りたが…)

かくして2005年9月2日、東京都中央区日本橋馬喰町のワンルームマンションの1室で産声を上げました。この日から見積りから請求書、経理伝票処理等々、それまでやったことのない業務を含め180度真逆の仕事人生が始まりました。宮仕えの頃には嫌いだった経理処理も何故か自分の会社のこととなると苦痛でもなく、気がつけば最後の1円の桁まで精査する様になっていました。
年が明けてすぐ、新小岩の駅の傍に小さな事務所を借りて在日の中国人二人を雇い、いよいよ本格的に本番ビジネスのキックオフをしました。ここから約6-7年はEnjoy活動の釣りもゴルフも極端に減らし仕事に没頭しました。今、考えると人生で最も仕事を真剣にしたような気がします。(笑)…現在の東日本橋の事務所は、この事務所が手狭になったことから 2009年に引っ越してきました。

3.ビジネスモデル

A. 自分が”何をやりたいか” と言うことと”何をすれば儲かるか” と言うことをかけ合わせ、3-5年ぐらいのビジネスイメージを作る… 「餅屋は餅屋で半導体/エレクトロニクス関連は外せない~大艦巨砲の大手がそろそろ疲弊しはじめた頃で、日本で当たり前だった1から10までを全部まかなう垂直統合からこれからは水平分業型になっていくだろう…それは明らかにアジア各国との分業を基本にパラダイムシフトが加速するだろう…」と言う観点から日本に残るのは開発や設計でファブレスモデルが強くなると想定し、上流の設計開発に頭を突っ込み製造は人脈をフル活用して台湾、中国に依託を基本にして自ら東奔西走をした。TMリンクの命名も”TateMatsuがリンクを作り水平分業Biz.を行う” が由来である。

B. しかし世の中、絵に描いた餅の様には行かず、2006年にライブドアショック、2008年にリーマンショック、2011年に震災ショックと2-3年に1度のペースで経済クラッシュが発生、一つのビジネススタイルに固執していては続かないだろうと言う判断をして世の中の情勢に応じてアメーバーの如くビジネスのポートフォリオを変化させた。

この間の栄枯盛衰、諸行無常の..バトルのいきさつに関しては下記の以前のブログでまとめたのでご参考まで

☆2018.04/10 TMリンクの半導体ビジネス
http://www.tmlink.jp/blog/2018/04/10-semiconductor-biz/
☆2018.03.12. 「TMリンクのLEDビジネスについて」
http://www.tmlink.jp/blog/2018/03/12-led-biz/

C. せっかく宮仕えを脱却し自由の身になったのだから半導体/エレクトロニクスから離れた何か “Something New” のビジネスにも挑戦したいと考えていた矢先、新小岩事務所に入ってくれたハルピン出身の在日中国人から中国東北地方の現状と就職難の話しを聞くうちに興味が沸き視察をした。中国東北地方にはエレクトロニクス産業がほとんどなく大学を卒業しても希望の職業に就けない人が多いとのこと、逆に当時、日本では(2005-6年)ITブーム到来で人材派遣会社が雨後の竹の子の如く乱立するもエンジニア不足が問題となっていた。

このアンバランスを見て一念発起、ハルピンに日本語学校と日本への就職斡旋会社を作り、日本側ではTMリンクで人材派遣の免許を取得し、東北地方の主に大学4年生を1年間、語学と技術の教育を行い、卒業と同時にTMリンクに招致して企業に派遣するビジネスを開始した。ハルピンの多くの大学も大歓迎でこの地域でトップのハルピン工業大学から大学内の場所を提供(1フロアー)するのでどんどん進めて欲しいと言うOfferがあり、ハルピン工業大学内に位置する有名な会社となってしまった。またこれらの取り組みを見た日本の人材派遣会社の雄、パソナが中国人エンジニア派遣事業をしたいので提携したいと申し入れがあり、小生はパソナグローバルの来日派遣事業部の顧問にもなった。
(–前記添付の名刺群の右端がそれで、易美人材有限公司は我々のハルピンの会社–)
中国東北地方の人は木訥としているがまじめで有能な学生が多く、日本への就職を募集すると1000人近い学生が応募してきた。我々は書類選考,面接を繰り返し繰り返し行い、毎回40人ぐらいに絞り込んだ。

 

(写真:ハル工業大学での説明会風景)

…この事業は思いの外、うまくいったが後のリーマンショックで新卒人材は買い手市場となり、外国人は敬遠され事業は大きく萎んだ。ただこの人材派遣のスキルと人材派遣免許は後々まで大いに役に立ち、特に最近では日本の半導体企業のリストラや撤退で有能なエンジニアを新しい会社に送り込むビジネスに貢献している。

##番外–ハルピンで会社を興したモティベーションは他にもある。初めてハルピンを訪れた際、旧日本軍が秘密裏に作った731部隊の博物館が人里離れた場所にあり見学した。日中関係の配慮からあまり取り上げられないがその悲惨な過去には目を覆いたくなるものがある。

  

(写真:731部隊の博物館)

実は私の誕生日が7月31日で何か731部隊と因縁を感じ、何か神様が “この地の為に何か貢献できる事をやりなさい” と言っている様な気がした…それと小生の父方のおじいさんが立派な人で、第一次世界大戦で満州国に行った際に軍服で馬に乗った凛々しい姿の写真が、私が小さいときに客間に飾ってあったのがずっと脳裏に焼き付いていて何か満州に縁があると感じた。
そしてリーマン後、ハルピンの会社を他の会社に譲渡したが、その後の経済クラッシュを乗り越える為に始めたLEDの電源事業でTMリンクに電源設計を担う為に入社して頂いた土屋主税さん(現TMリンク執行役員CTO)が毎回すばらしい設計をして会社のサバイブに大いに貢献してくれた。実は土屋さんの誕生日も7月31日でびっくり、やっぱり我らの如き技術屋では説明できない “見えない糸” の存在を感じた。

***コラム****

2000年代に入り、Dr.後藤と立ち上げた指紋センサビジネスは富士通の携帯電話部門にはなかなか認めてもらえず、しかたがないので韓国の新進気鋭の携帯メーカー “Pantech”に、当時、韓国の富士通半導体支社にいた池氏(現DDS Korea支社長兼TMリンク韓国ブランチ社長)と売り込み、世の中でほぼ初めて携帯電話に指紋センサがPantech GI100と言う機種に搭載された。  もちろんガラ携であるがこれは今ではレジェンド的な存在で下記のWebサイトで紹介されていてGSM圏内でお宅族がまだ使っているとのこと。

https://www.gsmarena.com/pantech_gi100-reviews-806.php
Now it’s 2017 and this phone release was in 2004. This phone is the grandmom of the all fingerprint smartphones.

この頃、私のところにテレビ局がきて富士通で指紋センサを開発して携帯電話に乗せるらしいが是非とも番組で取材、撮影させて欲しいと来た。しかし富士通の携帯ではなく韓国の携帯に乗せることが決まっていたのでそのまま開示するのはやばい…この番組は日曜の午前中に放映されていたメジャーでジャニーズジュニアが取材をしていたので、指紋センサを世の中に広げるのには絶好のチャンス…それで苦肉の策で会社名、取材場所を明かさず私の顔にモザイクをかけることで社内、番組側が合意、その放映された録画がこれである。

<VIDEO:画面にマウスをおき、再生マークをクリック>
 (この動画に出てくる携帯電話は拡販用試作品であり製品ではありません)

しばらくの間、私は社内外で「モザイクの立松」と呼ばれたが、他にも何度かテレビ出演の経験があるもののモザイクをかけられたのは後にも先にも無い…もちろんビデオ?出演も無い。(笑)

結び

以上、書き始めると走馬燈の如くいろいろな体験に思いをはせましたが、13年間続けられたのはTMリンクの命名の如く、自分だけで気張らず人様やパートナー企業の知恵と能力を最大公約数的にリンクし、一方で、自分達の持つMaxの力を出しつつも身の丈に応じたビジネスモデルに注力してきたからと思います。皆様に感謝、感謝です。
度々起こる経済クラッシュや地政学的問題に対して常にアメーバーのように業態やビジネスに変化を投じることが当たり前とすること…あたかも計画性が無く見えるが小さな会社はそれより常に社長が、その時の状況に応じて思慮深くそして臨機応変に対応していくことが肝要かなと実感しています。
私も長い間、経験してきた大企業で大きな事業計画や中長期計画などを策定しながら地に足をつけて進めるビジネススタイルとは真逆なので、昨今のリストラ等で急に大企業から外に出た人はこのブログをちょっとだけ参考にして、ある意味、”きまじめさ”を取り払って次のステップに取りかかることを老婆心ながらささやいておきます。電車が時間通りピッタリ来るのは日本だけですので…
少し”Something Change” をして柔軟に臨機応変にいきませう!